曲目解説集

ベートーヴェン  
交響曲第9番『合唱付き』曲目解説

ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770−1827)
交響曲第9番二短調 作品125 (1824年初演)

 ベートーヴェンの『第九』では、漆黒の闇と光の相克、楽園への憧憬、英雄的理想主義、歓喜が重要なメッセージとなっているが、2つの源を辿る事が出来る。
 ひとつは、言うまでもなくシラーのテキスト『歓喜の歌』である。美学者・教育哲学者・歴史家としても名高いシラー(1759−1805)はゲーテとともに疾風怒濤時代のドイツ文学を代表する。死を賭して自由を求める英雄カールを主人公とし初演時には失神者も続出した処女戯曲『群盗』(1785)、そして『歓喜の歌』(An die Freude, 1786)らは、理想主義に燃える青年たちを感動・鼓舞せしめ、若き日のベートーヴェンも例外ではなかった。フランス革命政府が名誉市民の称号を一方的にシラーに贈った事でもシラーの作品群が与えたインパクトが伺い知れよう。

 ベートーヴェンは1792年(22歳)の時点で、いつかはこの詩に曲をつけたいと考えていた。
 次に、暗黒(サタン)と光(神)の間の大会戦、アダムとイヴのエデンの楽園などを謳ったミルトン『失楽園』及び聖書の『創世記』を出典元とするハイドンのオラトリオ『天地創造』の強烈な影響である。ハイドン(1732−1809)の「世界最高の作曲家」という晩年の評判を不動のものにしたオラトリオ『天地創造』(1798年初演)は、1803年にはウイーンだけでも40回以上上演されている。英文テキストを、ヴァン・スヴィーテン男爵がドイツ語訳してハイドンに根気強く作曲を勧めた結果である。その頃若きベートーヴェンも男爵の後見がきっかけとなり当代一のピア二ストとしてウイーンで大活躍しており、ハイドンの『天地創造』に傾倒し通暁していたのは、後述する第九第4楽章 Welt! (世界よ!) の扱い方、ピアノ協奏曲第3番(1800年作曲、1803年初演)第2楽章のオーケストレーションが『天地創造』の楽園シーンをなぞっている事、ヴァン・スヴィーテン男爵との密接な音楽的交流などをみても解る

 ちなみに、シラー、ヴァン・スヴィーテン男爵、ハイドン、モーツアルト、そして男爵の友人でベートーヴェンの支援者ともなったロブコビッツ伯爵らはフリーメーソンの会員である。ベートーヴェンが会員であった記録はないが、作品を献呈した相手の多数がフリーメーソンであり、自由、平等、博愛などの理念の実現、光に満ちた理想郷(失われた楽園)と絶対的父なる存在への憧憬は、かれらにとって最も重要な命題であった。ナポレオンの快進撃を、火(自由)を神々(専制君主)から奪って人間(平民)に与えたプロメテウスにだぶらせ、バレエ『プロメテウスの創造物』(1801年)、交響曲第3番『英雄』(1804年ロブコビッツ邸で初演)をベートーヴェンは作曲している。

 『第九』が完成されたのは、上記の時期の約20年後である。8つの交響曲、
珠玉のピアノソナタ群、5つのピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、あまたの室内楽曲を量産したベートーヴェンも、1813年以降は難聴の進行、健康問題、支援者であった貴族たちの死去・没落、甥カールをめぐる醜悪な裁判沙汰などで創作のペースが格段に落ち、軽妙なロッシーニのオペラの大流行もあって、時流からは忘れ去られた存在となっていた。
 しかしながら、この交響曲は、それまでの作品群とは規模と深度において明らかに一線を画し、最後期のピアノソナタ、弦楽四重奏、『荘厳ミサ』(1823年)とともに、余人には測りがたい究極の眺望を音楽作品に具現化した渾身の傑作である。

 

<第1楽章> Allegro ma non troppo, un poco maestoso

 漆黒の闇(弦)にさすレーザー光線のごとき光(冒頭ホルン)は数を増し、やがて簡潔かつ威容を持った第1主題が宇宙を震わすように全貌を顕す。天使が奏でる楽隊(ホルン・木管)による第2主題が楽園(Elysium 第4楽章の歌詞:以下同)を束の間描いたのち、暗闇の中を魂が煩悩の発露に直面し自問しながら進む展開部に参入する。やがて地は震え「最後の審判」の召喚(トランペット)が鳴り響き煉獄の炎が燃え盛るなか第1主題が壮絶に再現される。すぐに楽園・第2主題に移った後、長大な終結部が展開部の暗夜行路を再現し「葬送行進曲」が魂の浄化、禊ぎの儀式を象徴する。第4楽章で「死の試練」を経た(geprüft im Tod)友や魂の参集が祝われるけれども、恐怖を克服できず魂の禊ぎをなしえないものたちは「涙しながら静かにこの集りから去る」(Weinend sich aus diesem Bund!)ことを象徴していよう。本楽章は第1主題をユニゾンで決然と奏し終わる。

 

<第2楽章> Molto Vivace

  ティンパニー(雷:全能のギリシア主神ゼウスの武器)が大活躍するスケルツォは、軽妙で神出鬼没、また時には神の手勢としてエデンの園を護衛しサタン軍との大会戦にも参加する天使たちを筆者に想起させる。中間部(トリオ)では楽園(Elysium)が初めて全貌を現す。水は澄み風は心地よく鳥たちがさえずり歓びの鐘(トロンボーン等の2分音符)が鳴り渡る。羊たち(楽園の住人)を見守る牧童・天使の吹くホルンの主題は、最終楽章の『歓喜の歌』の構成音を包含し両者間の相似は明白である。歓びが楽園に源を発するとするシラーの歌詞(Freude, Tochter aus Elysium:歓び、楽園を出自とする娘)の趣意が諒解される。

 

<第3楽章> Adagio molto e cantabile

 愛に包まれた安息と歓びの賛歌。第1主題即ち弦楽器による悠久の愛の詩(うた)は木管(天使たち)の呼応を受ける。楽園の美を愛でる3拍子の第2主題を2度挟みながら、第1主題は3度の変奏を重ねる。その様はあたかも次第に秘密の花園に分け入ってゆく蝶が嬉々として浮遊するが如くである。絶対的存在の威厳を感じさせるファンファーレ(トランペット他)も2度響き渡り、なおも変奏を続けるコーダでこの悠久のパストラール(牧歌:楽園はひよわな羊を神、聖人、天使たちが牧童として護る牧場ともいえる)は幕を閉じる。

 

<第4楽章>

大きな4つの部分から成る。

[第1部]歓喜の歌への軌跡とその全貌[オーケストラのみ]

 前楽章の平穏を破る冒頭は業火と地震・『最後の審判』のファンファーレ・怯える魂たちの阿鼻叫喚である。第1,2,3楽章を各々短く回想しながら低弦のモノローグが順次打ち消し、ついに調和に満ちた歓喜の歌の主題が聞こえてくる。歓喜の歌は低弦による独吟から始まりやがて世界を覆いつくすように総奏される。

 

[第2部]1.歓喜の歌 歌詞付/2.勇者たち/3.壮絶な戦いと弔い/4.歓喜の歌

(その1) バリトン独唱&コーラス
 『最後の審判』が再び鳴り響き、バリトンが「こんな調べではない。」「もっと歓びに満ちた歌に唱和しよう。」と宣した後、歓喜の歌がバリトン及コーラスによって再提示される。

(その2) テノール独唱&男声コーラス
 勇者(テノール)とその同胞たち(男性コーラス)が「同胞たちよ、勝利に向かう英雄のようにおのれの道を駆けて行け。」と謳うトルコ風の進軍マーチ。シラー・ベートーヴェンはホメロスの『オデッセー』などギリシア英雄詩をイメージしており、ギリシアは当時イスラム教国オスマン・トルコ帝国の支配下にある異国の地でもあった。それゆえ大太鼓、トライアングル、コントラ・バスーン、ピッコロ、トランペットの使い方が特徴的である。そのまま戦いの場面へと続く。

(その3) 戦い[オーケストラのみ]
 銃撃音も生々しい戦いは、演奏者が全身全霊で以って奏さざるを得ない壮絶な筆致で描かれ、ベートーヴェンはシラーの原詩をこの場面では敢て引用せず管弦楽のみで表現した。己の道を究める道程での内面の激しい闘いを象徴する(「内面的戦い」:ベートーヴェン『荘厳ミサ』の歌詞)。 フーガ的転調を重ねて最後はffで嬰へ音のユニゾンに収束し、pで残ったホルン2本の嬰へ音を軸として「白い棺」(ベートーヴェンが使わなかったシラーの原詩)に象徴される勇者たちの名誉の死を悼む。その嬰へ音を起点とする歓喜の歌が湧きあがるように環ってくる。

(その4) コーラス
 凱旋祝福の歓喜の歌が高らかに歌われる。

 

[第3部]1.神殿での荘厳な儀式/2.二つの主題によるフーガ

(その1) コーラス
 清澄な夜。「幾百万の人々よ、抱擁されよ!」(Seid umschlungen, Millionen!)「同胞たちよ、あの星空の彼方には慈愛に満ちた『父』がいらっしゃるのだ!」(Brüder, über'm Sternenzelt Muss ein lieber Vater wohnen.)との司祭たち(男声)の声明(しょうみょう)に会衆(混声合唱)が唱和する。 グレゴリオ聖歌のスタイルともいえるが、シラー・ベートーヴェンは遠く古代ギリシア・エジプトの儀式を思い描いていたと思われる。これは歓喜の歌である第1主題に比肩する重要な第2主題(=「抱擁」主題と名付ける)でもある。営みはいよいよ佳境に達し、コーラスが「君は創造主、そして世界(宇宙)を感じるか?」(Ahnest du den Schöpfer, Welt?)「星の彼方に彼(父)がいらっしゃる」と、会衆全員が夜空を見上げる神秘的ppに到達する。ちなみにWelt (世界) のみがハ長調で鳴り響きトロンボーンが加わっているのは、ハイドン『天地創造』(Die Schöpfung)で神が光を創造した場面でトロンボーン・ハ長調和音が劇的に用いられた事を踏まえている。

(その2) 合唱:二つの主題による四声フーガ 

 天上の惑星の巡行をすら想起させる壮大なフーガでは、第1主題(歓喜の歌)と第2主題(抱擁主題)が同時に四声パートに順次受け継がれてゆく(注参照)。 最後は讃美歌風コーラスとなりオーケストラの音型は上昇して、天上の父に思いをはせながら神秘的に静かに消える。

 

[第4部] 祝典的フィナーレ

(その1) 独唱四重唱とコーラス
抑えきれぬ興奮のなか歓喜の歌と抱擁主題の歌詞・モチーフが再現される。 ゆっくりとした Poco  Adagio が2度現れるが、一度目は束の間でコーラスが、そして2度目は4人の独唱者がたっぷりと「貴方の柔らかな翼が憩うところで、総ての人々は同胞(兄弟)になる。」を聴かせる。

(その2) コーラス    
速度記号Prestissiomo (可能な限り早く)も示すように、最高の喜びに酔いしれた恍惚の熱狂である。トルコ風マーチに用いられたエキゾチックな打楽器群も再び加わって、抱擁主題の歌詞とモチーフが凝縮して再現され、歓喜の歌の冒頭の詞も繰り返されると、やがて荘厳で威厳に満ちた最後の合唱に到達する(Maestoso)。すなわち弦楽器が燦然と輝く光を表現する中コーラスが「喜びよ、美しい神々の閃光よ」と歌いあげると、そのままオーケストラが原光をめがけて全速力(Prestissimo)で駆け抜けてゆくように締めくくる。

(注)
フーガ技法はもともと真理・神の摂理を象徴する教会音楽の技法でJ.S.バッハが多重フーガの技法を極めている。若き日のベートーヴェンは、ヴァン・スヴィーテン男爵が個人的に所蔵していたJ.S.バッハの楽譜を男爵邸で彼の求めに応じて夜更けまでピアノで弾き込みかつ研究し、すでに交響曲第3番から本格的にフーガ技法を導入している。世俗的舞曲と開幕告知に過ぎなかった序曲とを先祖にするシンフォニーにおいて、フーガの使用は常識破りであった。第九の雄大でエキサイティングな2重フーガでは、ベートーヴェン独自のフーガのスタイルが確立されている。ちなみに忘れられていたJ.S バッハ(1685-1750)の音楽がメンデルスゾーンによって「再発見」されるのは、べートーヴェンの死後である1829年であった。


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